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2013/02/23

評価

評価する、評価される。

おそらくほとんどの人が、好きであり、嫌いであるもので、かつ誰もが常に評価し、されながら暮らしていると思います。

身近な例に置き換えれば、オシャレをしたり、化粧したりするのは、良く評価されたいというごく日常的な行動で、そこから分かるように誰もが良く評価されたいという気持ちを大なり小なりもっていると思っています。facebookなどで、「いいね」を沢山欲しい。もらえたら嬉しいそう思いませんか?

まぁ当然、悪く評価されたいという人はいないと思いますが、少なからずそう思われないよう人は常に評価を「気にしながら」生きている存在なんだと思っています。


で、最近これが非常に難しいというか、まずいなぁと感じたりしています。


1対1で自分と相手の評価、1対多であれば集団や組織(内部評価)やもっと広い社会の中での評価(外部評価)で、それぞれが一致すれば何ら問題ないのですが、ここにズレがあった場合、大抵の人は「!?」と立ち止まってしまいます。

これらはよくあるパターンなので、触れませんが、SNS、特にfacebookなどの、これらの中間というか横断的なツールが生まれてきたもんですから非常にややこしいのです。良い意味でも悪い意味でも。

最初に評価については、良い悪い共に「囚われないこと」「気にし過ぎないこと」に尽きるのですが、ある傾向が浮かび上がって来て現実の実態を複雑化させているように感じています。

あくまで、自分のようなどこにも属し、属さないような輩から見た場合ですが、
1つの傾向は、集団・組織が多くは消極的な結束を強める(内と外を明確化しようとする=外に対しての排除が強まる。)=細胞の委縮。
もう1つの傾向は、そうではない者の独立・浮遊を促進する(内と外をボーダレス化する)=細胞の膨張・拡散・破裂。

そもそも人間は重層的なネットワークの中で生きていて、複数の集団・組織に所属し、それぞれの地位や役割を演じながら生活しているのですが、これがさらに実態から離れやすくなっていて、重層ではなくなりつつあると言っていいと思います。

となると、実際身に起きていることですが、集団・組織に属した者と、独立・浮遊した者との間に、埋めがたいズレが生まれたり、個人も組織も収縮したり・膨張したり流動化して、評価そのものがその場その時に流転して、実態にまで影響を及ぼしていく。

という状況で、限りなく後者に近いのですが・・・。何だかどう扱って(統合して)よいのやら?という評価が多いのです。。。

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