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2011/12/13

地を行く

久しぶりの更新。

先日、突然のインタビューで映画「飛べ!ダコタ」、映画づくりは「当時に再帰するプロセス」というようなニュアンスのことを話した気がする。(ぶっつけ本番、ぽろっと出た言葉を紡ぐだけだったけど・・・)

で、最近つくづく感じていることは、75年以上飛んでる飛行機、65年前の出来事・・・もちろん自分が生まれるずっと前のモノやコト。

にも関わらず、そうしたモノやコトに触れれば触れるほど、当時から現代に至る道のりというものが、「歩み」から「走り」、「跳躍」していっているのを肌で感じる。

当時は身近に手に入るもの(あるもの)を、手作業と知恵、我慢や工夫から生み出し、利活用し、何度も再生させていた。ヒト、モノ、カネ、情報が基本的に「歩いていける範囲」「再生産される状況」にあった。

けれども、
「セナコジ」と「オイバコ」は、一輪車になり、リュックサックになり、軽トラックになり、パワーショベルやブルドーザーになり・・・

「井戸端会議」は、電話になり、携帯になり、メールになり、チャットになり、SNSになり・・・

「わらぞうり」は、ゴム靴になり、スニーカーになり・・・

「婚姻」はご近所から、遠方、国際化までし・・・

どんどん、おカネや、身近なとこからどこか遠くに行ってしまったり、消えてなくなるものになってしまったり・・・。


というようにありとあらゆることが、本当に変化「した」とも、「もたらされた」とも「獲得した」とも「ある意味で失った」とも言える感覚を味わう。


決して単純に当時に遡るということが、『便利』から『不便』に遡る。
ということでもなく、個人的には「宙に浮いた体を仮に着地させてみる」という感覚が腑に落ちる。
歴史はもちろん、人間関係も色々な「つながり」を感じ、体感し、こうやって、文字として「飛ばす」こともできる。

その「つながり」の中で、今回の映画づくりは、決して疑似体験でも、想像や追憶でもなく、「地を行く」ことを問うてくれる。

陸続きでない、佐渡。
その地を行くがごとく今、映画づくりが動く。